【産経抄】10月7日

 わが家にはこの夏、2週間ほど居候の客がいた。どこから来たのか、壁と棚の隙間を出入りしていたのは幼いコオロギである。「ろくな食べ物もなかろう」と同情を催し、庭草に放してやった。虫のすだきを耳にする度、草陰に消えた小さな命を思い出す。

 ▼「すだく」は漢字で「集く」と書く。虫たちの唱和はなるほど、声をかぎりにわが夜を謳歌(おうか)する命の集いだろう。日本では古代から歌や詩に詠み込み、アングロサクソン系の人々は「雑音」だとして聞き捨てた。「日本人は虫の音を左脳で聞き、欧米人は右脳で聞く」の説がうなずかれる。

 ▼万葉集には〈陰草(かげくさ)の生ひたる宿の夕かげに 鳴く蟋蟀(こおろぎ)は聞けど飽かぬかも〉と声に聞きほれる歌があり、〈蟋蟀の待ち悦(よろこ)べる秋の夜を 寝(ぬ)る験(しるし)なし枕と我は〉と夜長を持てあます歌もある。「耳の秋」から咲いた詩情の花といえる。

 ▼虫のすだきに目がさえる夜も、あとどれほど続くだろう。8日は二十四節気の「寒露」で、半月もすれば「霜降」を迎える。さわやかな秋涼はつかの間、庭草に結んだ朝露は、やがて霜へと変わる。先を急ぐ暦の足音がうらめしい。

 ▼と、深まる秋を書き進めたところで、新潟県では6日の最高気温が35度を超えたとのニュースが届いた。「異常」と呼ばれる空の変転には慣れているものの、虫たちにとっては歌声の調子が狂う迷惑な秋だろう。手元の国語辞典を繰ると「すだく」には「呻く」の字もある。うめく、か…。

 ▼コオロギは成虫になった後、ひと月半ほどで短い命を閉じる。彼とも彼女とも知れぬこの夏のお客が、暦を逆さにめくる無情の空模様に負けず、天寿を全うしてくれればいいが。詩情と異常の行き交う秋に、草花を揺らす澄んだ声まで呻吟(しんぎん)に聞こえてくる。

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