【産経抄】10月8日

 1917年4月、ニューヨークで誰でも出品できる美術展が開かれることになった。直前になって送られてきたのが、男性用便器に「R・マット」と偽の署名をしただけの作品「泉」である。果たして芸術作品といえるのか。議論の末に出品は拒否される。

 ▼作者はフランスの美術家、マルセル・デュシャンだった。美術展の実行委員の一人でもあったデュシャンは、便器の写真とともに抗議文を雑誌に掲載する。美術史上名高い「リチャード・マット事件」である。「泉」はその後行方不明となり、複製品しか残っていない。それでも、現代美術にもっとも大きな影響を与えた作品ともてはやされてきた。

 ▼101年後、またもや美術界を揺るがす「事件」が起こった。ロンドンの競売大手サザビーズで5日、一枚の絵画が104万2千ポンド(約1億5500万円)で落札された直後、額縁に仕掛けられたシュレッダーによって切り刻まれた。作者である正体不明の路上芸術家、バンクシーの仕業である。

 ▼バンクシーはこれまで、世界中に出没し反戦や反資本主義をテーマにした落書き絵を描いてきた。ニューヨークのメトロポリタン美術館やロンドンの大英博物館に忍び込み、自分の作品を勝手に展示して物議を醸したこともある。

 ▼バンクシーはインターネット上で、ピカソの名言を引用しながら自らの「犯行」を明かした。「いかなる創造活動も、はじめは破壊活動だ」。バンクシーが破壊しようとしたのは、特定の作品だけが高額で取引される美術界のシステムだろうか。

 ▼もっとも切り刻まれたおかげで、作品の価値がさらに高まる可能性もある。今回のいたずらは、デュシャンが起こした事件と同じく、芸術とは何かを問いかけている。

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