死を考えた中3の夏…好きな曲に救われた “自分で死んだりしては絶対にいけない”と確信

【織田哲郎 あれからこれから Vol.14】

 高知の寮に入ってから最初の数カ月、とにかくみんなの高知弁のグルーブに入っていけず、寮でも学校でも、実際はそんなはずはないのですが、心象風景としては周囲のみんなが常に半径5メートルくらい離れて遠巻きに見ているという感覚でした。

 私の中身も英国で発症した“中二病”が悪化し本人は論理的な思考をしているつもりでも、脳内が完全にねじれて視野狭窄に陥っていました。

 英国で酒やタバコがある程度習慣化していたので、寮では落ちこぼれタイプの先輩たちと酒とタバコ、そしてロックを通じて付き合うようになり、一緒にいろいろとやらかした揚げ句、中3の1学期が始まって数カ月で停学になったのです。

 学校は進学校というか、男子生徒は全員丸刈りという校則があるようなカタい学校でしたから、停学になった途端、半径5メートルが半径10メートルに広がった感じでした。そりゃあ、近寄ろうという人間はなかなかいません。

 実は私は小学校の頃から“死”というものについてやたらと思案をめぐらす子供でした。父親がよく「人生大事なのは辛抱と努力だ」とそれはそれである意味普通のお説教をしているのを聞いて「だったら早く死んだほうが楽じゃね?」と思い、どうやって死ぬのが楽で、かつ死後に恥ずかしくなく迷惑が少ないかと妄想していました。本当に幼い部分とねじくれた部分のバランスが悪い子供だったと思います。

 そしてついに中3の初夏、半径10メートル以内に誰も近寄らない(しつこいですがあくまで心象風景です)日々の中、いよいよもう今夜死のうと決心したのです。好きな音楽を聴きながら死にたいと思い、ラジカセとカミソリを持って寮の屋上に行きました。「これが最後に見る風景か」と思いながら、好きだった曲の入ったカセットを聴いていたら、突然、本当に突然、脳内で音楽がすべて光に変わったのです。

 その光の洪水が、脳内の黒々とした澱(おり)を洗い流していきました。この時聴いていたのはエルトン・ジョンでしたが、その数分間、とにかく光の洪水の中、延々と涙が出続けました。

 そのわけの分からない現象、自分にとっては何かの本質に触れたと感じた数分間が終わったとき“自分で死んだりしては絶対にいけないんだ”と理屈ではなく、確信を持つに至りました。絶対に自殺をしてはいけない理由が、人間の論理や言語を超えたところに歴然とある。その後の長い人生で、鬱になっても、どんなことがあってもその確信だけは揺るぎません。

 その体験があるので、プロとして音楽を作るようになってから、もし1人でも本当に誰かの命を救うことができたなら、それだけで自分は音楽を作ってきた意味があるとずっと本気で思っています。 (夕刊フジに連載中)

 ■織田哲郎(おだ・てつろう) シンガーソングライター、作曲家、プロデューサー。1958年3月11日生まれ。東京都出身。79年のデビュー当初からCMやアーティストの音楽制作に携わる。TUBEの「シーズン・イン・ザ・サン」で作曲家として注目される。主な代表曲は「おどるポンポコリン」(B.B.クィーンズ)、「負けないで」(ZARD)、「夢見る少女じゃいられない」(相川七瀬)など。自らも「いつまでも変わらぬ愛を」がミリオンセラーとなる。

 現在「オダテツ3分トーキング」をYouTubeで配信中(毎週土曜日更新)。

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