不発弾、空襲の記憶(下)燃える町、爆風…壮絶な光景

 東京都江東区を襲った昭和20年3月10日の大空襲。不発弾をきっかけに始めた取材で、二瓶治代さん(83)は凄絶な体験を25歳の記者に語ってくれた。

 「みんな出ろ! 蒸し焼きになるぞ!」。父親に呼ばれて防空壕(ごう)を出ると、自宅前の千葉街道(現・京葉道路)は渦を巻くように火の川となり、北西の風で火の粉が横向きに飛んできた。何とか火の川を横切り、自宅向いの土手にたどり着いた二瓶さん家族4人は、そこから自宅や町並が燃えていく様子を見ているしかなかった。駆けつけた消防団、転んだ子供も火にのまれていった。

 土手にも火が回り始め、千葉街道から亀戸駅の方へと逃げた。4人で手をつなぎながら走っていたが、二瓶さんの防空頭巾に火が付いた。父親が「頭巾を取れ!」と叫び、つないだ手を離し頭巾を取ろうとした。すると強風で若草色の頭巾が空へ飛ばされ、二瓶さん自身も吹き飛ばされた。

 そこからは「無我夢中で逃げた」という。たどり着いた建物の陰で、人が立ったまま燃えていた。「消してあげなきゃ」と近づくと、ふいに左手を出してきた。「『来るな』か『助けて』かは分からない。ただ左手から緑色の炎が出ていて、振り袖のようにとてもきれいだと思った」

 その炎を自分の手で払ってあげようとすると、後ろから「あんた、そんなところに行くと死んじゃうよ!」という声が聞こえ、弾かれるようにその場を離れた。その際、鉄の電柱にぶつかり「熱いと思ったのはそのときが初めてだった。熱さではっと、はぐれたことに気がついた」という。

 「どうしよう」と思ったとき、いきなり右腕をつかんだ人がいた。「お父さんなの?」と何度も問いかけたが、爆風や炸裂(さくれつ)音で返事は聞こえなかった。腕を引かれながら逃げていると、「なぜか急に動けなくなって、しゃがみ込んでしまった」。二瓶さんはそのまま意識を失った。

 東京都戦災誌によると、空襲による火災が鎮火したのは午前5時10分。二瓶さんも火災が下火になったころ、父親に助け起こされた。右腕をつかんだのは、やはり父親だった。足元を見ると、自分たちの上に覆いかぶさっていた人たちが黒炭のようになっていた。「私は焼き殺された多くの人に守られて命をいただいた」と声を詰まらせる。

 東京大空襲は人口密度が高い下町が焼き払われ、同誌によると江東区だけで約3万2千人が亡くなった。木造家屋の密集地に焼夷(しょうい)弾が投下され、強風により大火災になったことや、当時の防空法が空襲に対して逃げずに消火に当たることを義務づけていたことなどが背景とされている。

 東京大空襲・戦災資料センターによると、江東区有明は、戦局激化のため幻となった1940年五輪東京大会の会場候補地だったという。

 有明は今、来年の「スポーツと平和の祭典」に向けて踏み出している。そこに今年、3発の焼夷弾が不発弾として姿を現した。二瓶さんにその話をすると、「不発弾はもう爆発はしないでしょ」とほほえみ、しかし「発見現場には行きたくない」とも語った。その言葉には感傷的になりがちな第三者とは違う、空襲体験者の重みがあった。

 振り返ると、東京で生まれ育った記者は学校で沖縄の地上戦や原爆について学ぶ機会は多くあったが、地元の東京大空襲は少なかった。二瓶さんは「知ろうとする気持ちは持ってほしい。戦争、平和と構えずに、その時代の人たちがどう生きていたのか分かるような機会が増えれば」と願う。

 終戦から74年が過ぎ、当時を知る人は年々少なくなっている。発見された不発弾は「忘れるな」と訴えているのかもしれない。その取材に自分が携わった意味を、これからも考えていきたい。(吉沢智美)

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