光秀は近江出身だった? 来年の大河ドラマご当地から新説

 通説では美濃国(現在の岐阜県)で生まれたとされる戦国大名の明智光秀が、実は近江国多賀(現在の滋賀県多賀町)の出身だったとする「新説」を、滋賀県教育委員会文化財保護課の井上優係長が提唱している。江戸時代の文献に光秀が多賀町で生まれたとする記述が見つかったほか、現地調査で同町に光秀にまつわる伝承などが多く残っていることも判明した。光秀の生涯を描く来年のNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」の放送を前に、歴史ファンらの注目を集めそうだ。(花輪理徳)

 天正10(1582)年の本能寺の変で、主君だった織田信長を討った「裏切り者」としてのイメージが定着する光秀だが、前半生は謎に包まれている。出身地についても岐阜県恵那市や可児(かに)市など諸説あるが、出自を直接裏付ける史料は見つかっていないという。

 井上係長は17世紀後半の江戸時代前期に成立した近江国の歴史を記した「淡海(おうみ)温故録」に着目。同書の中に「左目(現在の多賀町佐目(さめ))には美濃が本国だが、土岐(とき)氏に背いて浪人し、近江の六角氏を頼った明智氏が移り住み、移住して2~3代後に明智十兵衛光秀が生まれた」という趣旨の記述があるのを見つけた。

 さらに佐目地区での現地調査で、光秀の生家と伝わる「十兵衛屋敷」の跡地とされる空き地や、光秀にゆかりがあると伝わる「カミサン池」(池の跡)が現存するなど、光秀にまつわる伝承が多く残っていることも分かった。

 本能寺の変の後、光秀が現在の京都府大山崎町付近で羽柴(豊臣)秀吉と戦った「山崎の合戦」を前に、光秀から戦場から離れた多賀大社宛てに、社内での兵士の乱暴を禁じて安全を保証する書面が送られているなど、多賀と光秀を結びつける史実もあるという。

 井上係長は「史料が不十分で史実とはいえないものの、決して荒唐無稽な話ではない。状況的には美濃説に比べても信憑(しんぴょう)性は高いといえる」と自身が唱える新説に自信をのぞかせる。

 一方、通説とされている美濃説については「根拠とされている史料は近江説を否定できるほど決定的なものではない」と指摘する。

 井上係長は光秀に関する史料が少ない理由を「主君を討った裏切り者のイメージが定着しているからだ」と分析する。佐目地区でも光秀の家臣の子孫と伝わる住民が「見津家」姓を名乗っているが、光秀の家臣だったことを隠すために「みつ」ではなく、「けんつ」と読ませるなど、光秀との関係を公にすることをはばかる風潮があったという。

 井上係長は「大河ドラマを機に、光秀の悪いイメージによって隠されてきた史料や伝承が掘り起こされ、新しい事実が明らかになれば」と期待を寄せている。

アクセスランキング

もっと見る

ピックアップ