「韓国問題」解決の機会を生かせず 訪日した李承晩をほぼ無視…激怒した李は「反日」徹底

【吉田茂という反省】

 評論家で近現代史研究家の阿羅健一氏との対談本『吉田茂という反省』(自由社)を出版した。そこで詳しく語り合っているのだが、吉田茂という政治家は実に「でたらめな首相」だった。「大宰相」といわれているけれど、調べればいかにひどいかが、すぐに分かる。

 あまり知られていないが、吉田首相時代に、韓国が「反日」でなくなり、島根県・竹島も返還されていたかもしれない機会があった。

 韓国大統領の李承晩が、一方的に「李承晩ライン」を設定して竹島を不法占拠したのは1952(昭和27)年1月、サンフランシスコ講和条約が発効する少し前だった。

 その李が53(同28)年1月、李承晩ラインをめぐって起こった日韓の漁業問題や竹島問題を解決しようとして、ひそかに日本を訪ねて吉田に会ったことがあるのだ。

 時はまだ、朝鮮戦争が続いていた。国連軍司令官は、ダグラス・マッカーサーの後任、マシュー・リッジウェイの後を継いだマーク・W・クラークだった。クラークは、日韓の冷たい関係を心配して、吉田と李を会わそうとして、やっと実現した。

 2人は東京にあるクラークの私邸で向かい合った。李は、正式な会談ではないという立場をとりながらも、熱心にしゃべった。

 これに対し、吉田はほとんど話さなかったという。終わり方、「問題解決には忍耐の美徳が不可欠である」という不可解な言葉を残して去ったとされる。

 それでも、李は「成果があった」と思い、日本からの答礼訪問(=首脳外交は相互主義が原則。李が訪日したので、今度は吉田が答礼訪問するのが基本)を期待していた。

 しかし、日本から答礼訪問の申し出はあったものの、吉田ではなく外相の岡崎勝男が韓国に来るという。李は恥を忍び、我慢して日本を訪問したのに、吉田は来ないという。

 激怒した李は、すでに始めていた「反日教育」を、さらに徹底することになった。

 吉田は好き嫌いが激しかった。嫌いな政治家とは口もきかなかった。その代表格が、国内では農相などを務めた河野一郎(=河野太郎外相の祖父)で、外国ではインドネシア大統領のスカルノと、韓国の李だった。

 おそらく、岡崎から「答礼訪問しなければならない」と言われ、吉田は「俺は行かない。お前が行け」となったのではないか。

 感情の起伏が激しく、物議をかもす数々の暴言を残した吉田は、せっかくの日韓問題解決の機会を生かさなかったといえる。=敬称略

 ■杉原誠四郎(すぎはら・せいしろう) 教育研究家、日本近現代史研究家。1941年、広島県生まれ。東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。城西大学教授、武蔵野大学教授を務めた。新しい歴史教科書をつくる会顧問。著書・共著に『外務省の罪を問う』『保守の使命』『吉田茂という反省-憲法改正をしても、吉田茂の反省がなければ何も変わらない』(いずれも自由社)など多数。

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