【話の肖像画】龍谷大学教授・李相哲(61)難関突破、いざ北京の大学へ

 《中国全土を混乱に陥れた文化大革命(文革)が終わり、1977年には一般大学入試が12年ぶりに再開された。当時副首相に復活していたトウ小平による決断だった》

 この前年の76年9月、毛沢東が亡くなりました。その日のことはよく覚えています。当時は中国のあちこちで水路を造るなど大工事をやっていて、その青年たちを慰問するため映画を上映しに向かうところだったのですが、急遽(きゅうきょ)取りやめになった。毛沢東が亡くなったからというのです。

 死去のニュースを聞いてもあまり感じるところはありませんでした。文革の被害もなく、毛沢東に関心を持たなくても暮らしていられたからでしょう。仕事が休みになったので家でギターを弾いていたら、姉に怒られましたけれど。

 毛沢東は知識人が嫌いで、「知識人の話は纏足(てんそく)の包帯のように長くて臭い」などと言っていました。一方、後に「四つの近代化」を打ち出したトウ小平は教育の大切さを知っていました。中国当局は留学生が必ず帰ってくるように、パスポートの有効期間を短くするなどいろいろな仕掛けをしていたのですが、トウ小平は「(留学生のうち)1割でも帰ってくればいいじゃないか」と言ったそうです。

 《77年に復活した大学入試は受験資格に年齢などの制限を設けなかった。過去12年分の高校卒業者が殺到し、史上最も競争の激しい入試となった。受験生570万人のうち合格者はわずか27万人。このため、中国では77年組を「金メダル」、やはり激戦だった78年とそれ以降を「銀メダル」と呼ぶそうだ》

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