【話の肖像画】龍谷大学教授・李相哲(61)難関突破、いざ北京の大学へ

 映画技師をしながら78年の試験に備えました。10年以上も試験がありませんでしたし、田舎には大学受験のための参考書のようなものがありません。どのレベルまで勉強したらよいのか、分からなかったのですが、8つ年上だった2番目の兄は、推薦などで大学へ入った「工農兵大学生」と呼ばれる大学生だったのですが、その兄が都会にいたので、いろいろ探して教材を送ってくれました。

 《文革時代の70年から76年まで、工人(労働者)、農民、兵士の中から優秀な人が選ばれ、所属する組織の推薦で大学生になった。これが「工農兵大学生」で、習近平国家主席も工農兵大学生だった》

 数学の一番いい教材は天津の重点高校の教材だと聞き、さらに近くの村にハルビンから知識青年(女性)が下放されてきていると聞いたので、教材を借りに行きました。基礎から全部やり直して頭に入れたら、小説を読むようにスーッと教材が読めるようになりました。

 地域を束ねていた人民公社で予備試験が行われ、それに合格すると県レベルで試験がありました。いずれも合格率は1割ぐらい。その後、全国統一試験に臨みました。試験問題は厳重な秘密ですから、出題を担当した先生は1カ月間、外に出られなかったと聞きました。

 《志望大学を選ぶ欄があり、リストの一番上にあった中央民族大学に印をつけた。好成績で合格したが、母は北京へ行くことに反対したという》

 息子が映画技師であることが自慢だったのです。給料をもらうとそのまま母に渡していましたし、兄への仕送りにもなった。でも私は広い世界に行きたかった。鉄道で北京へ出るまで、列車の待ち時間も入れて3日間もかかりました。(聞き手 長戸雅子)

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