江戸時代、命懸けで導水した5庄屋の業績しのぶ 福岡・うきは市

 江戸時代初期、筑後川からの導水を命懸けで実現した5人の庄屋を顕彰する「五庄屋追遠会」が、福岡県うきは市吉井町の長野水神社で開かれ、その業績をしのんだ。ゆかりの大石堰(せき)では6月16日から取水をスタート。対岸の同県朝倉市の山田堰でも翌17日に通水式があり、筑後川流域は田植えシーズンを迎える。(永尾和夫)

 久留米藩領だったうきは地域は、目前に川があるのに水利が悪く、干(かん)魃(ばつ)が多発した。このため寛文4(1664)年、5人の庄屋が立ち上がり、上流約10キロの筑後川から水を引くことを計画し、処刑覚悟で藩に陳情した。これが藩営事業として認められ、村人ら延べ4万人を動員して数カ月で導水に成功したとされる。その後、改修を重ねて大石・長野水道として今にいたっている。

 この5人の庄屋の物語は地域に伝承されてきた。うきは市立江南(えなみ)小では、毎年5月2日に「五庄屋追遠会」を開催し、歌詞に5人の庄屋の名前のほか、「はりつけ」や「刑罰」といった穏やかでない文言も並ぶ校歌を歌ってきたが、コロナ禍のため昨年に続き今年も中止になった。

 このため、校区の五庄屋追遠会が、庄屋を祭る長野水神社で神事を執り行い、5庄屋の業績をしのぶことになった。追遠会では地域の代表ら13人が玉ぐしをささげ遺徳をしのんだ後、中川幸夫会長が「5庄屋は地域の守り神でもある。地域の繁栄とともにコロナ退散を祈る。5庄屋の業績はこれからも語り継いでいきたい」と語った。

 大石堰は昭和28年の筑後川大水害により破壊され、その後、コンクリートに造り替えられた。現在、大石堰土地改良区(会員3160人)が総延長148キロになる水路を管理し、6月16日から取水、1900ヘクタールの農地を潤す。

 一方、朝倉地方でも福岡藩が寛文3(1663)年、筑後川から水を引き込んだ堀川用水を開削した。18世紀末には取水量を増やすため筑後川に山田堰を設けた。強い水圧に耐えられるよう斜めに配置され、総石張りという独特の構造。同時に山側の高い農地に水を揚げるため水車も考案された。山田堰の通水式は6月17日にあり、約2キロ離れた三連水車が回り始める。

 山田堰はアフガニスタンの復興支援活動中に凶弾に倒れた中村哲医師が灌漑(かんがい)用水路建設のモデルとしたことで知られる。

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